無理なものは無理だった

精神論という言葉は、昨今あまり良い言葉とは捉えられていない雰囲気がある。

 

悪い言葉ではないと思う。

ビジネスもスポーツも能力以外に精神力(強い思い)がなければ勝者とはなり得ない。

特にスポーツは、同じ能力を持つならば勝負を分けるのはメンタルである。

 

昨今の精神論が敬遠される理由は、バランスを欠いてきたからであろう。

 

学生スポーツなどでは、精神論が先に立ってしまって色々な不祥事の原因ともなっている部分がある。

 

近頃は科学的な練習、環境の整備が進んできたので、あまり無茶なことは聞かなくなった。一方でかつての日本スポーツは、長時間の過酷な練習や指導(いじめと紙一重?)によって、強いメンタルをもった勝者を生んでいたことも事実といえば事実である。

 

過去に体育会出身者が就職で有利と言われた時代があったのは、理不尽を耐え抜く精神修養をしたものが企業にとっても有益な人材であったということだろう。

 

昨今のスポーツに関しては、科学的な準備が高度に進んだ結果、日本選手は強くなったと実感する。これは、オリンピックの結果以外にも世界に通用するアスリートが出てきたこともその証明かと思う。

 

高度成長時代、つまり私の世代のスポーツ論は正に体育会という言葉のイメージ通りだった。例えば、野球部。当然ながら甲子園に出れるのはほんの一握りの学校である。私の通った高校などは、地方予選を2回勝てれば上出来という感じだった。

でも、野球部の連中は1年中練習していた。雨の日も廊下で素振りをして、校舎内の階段を走り回っていた。聞いたところ、休みは元旦のみだったらしい。

・・・でも、甲子園には全く縁がない。こういう野球部はほぼ全国の標準だった。

 

さて、先の戦争で日本が敗戦を期したのはなぜか?という議論をよく耳にする。

精神論ばかりで・・みたいな評価もよく聞く。

 

 

もう読んだのは10年以上前と記憶しているが、太平洋戦争開戦前に各省庁の若手キャリアを「大臣」に模して集合させ、日本が開戦した場合の総合力の検討を行っていた。若手キャリアとは30歳前後の課長補佐クラス。当然、高等文官試験をクリアした当時のエリートである。感覚的には、当時の高級官僚は現代よりも遥かに高い社会的地位があったのではないかと思う。

この中には文官だけでなく、武官、つまり陸軍、海軍からの参加者もあった。若手の大尉クラスが同年代の文官とともに国力の総合検討を行ったのである。

 

この総合検討結果は「惨敗」に終わる。検討は軍人が行う戦闘力の検討ではなく、商船の消耗率、工業力による供給力、経済力。商船の消耗による物流活動への影響等、総合的な判定を冷静に行っていた。

 

結果的に、この分析を当時の国家指導者が耳を傾けることはなかった。しかし結論は現実という形で4年後に突き付けられた。

 

当然、世論が一旦、鬼畜米英となってしまうと止めるのは容易なことではない。冷静に平和を希求して政治家トップが断固として「戦わない」という意思を示せば、命を狙われることもあったろう。しかし、バイアスのない分析を背景に断固とした姿勢を示せたならば、最悪な結果は避けられていた。

 

企業が衰退するのも、概ね同じ理由のような気がする。例えば、ガタガタになった会社を立て直した人がいたとしよう。現状を分析して、捨てる部分を英断して、補強する部分には大胆な施策を打って、立て直した話は枚挙にいとまがないくらい、よく聞く。

 

しかしである。数年して会社が軌道に乗ってくると、その時の苦労はだんだんと神話となっていく。そして10年経って人が変わると、同じ過ちを繰り返したりするのである。

 

そういう意味では、非常時を経験した会社は貴重な財産を持っているともいえるし、立て直した時の記録、そして記録を継続的に伝える(教育材料とする)努力を怠ってしまうといずれ同じ目にあったりするのである。

 

学習は人間に与えられた大きな能力である反面、組織が反復して学習するのは容易なことではないと思うのである。